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昭和史2・26事件の歴史観
掲示板掲載から


2・26歴史観その1 投稿者:長谷川 博  投稿日: 2月27日(火)17時53分07秒

昨日の2月26日を記して、歴史観を紹介します。
私の2・26事件の歴史観です。

(2・26事件の事実関係概要)
昭和11年(1936年)2月26日 東京は昨夜から30年ぶりの大雪。
26日午前5時過ぎ、岡田啓介首相官邸襲撃(岡田は私設秘書と間違えられ一命が救われる)、斉藤実内大臣私邸(射殺)、渡辺錠太郎教育総監私邸(射殺)、高橋是清大蔵大臣私邸(射殺)、鈴木貫太郎侍従長官邸(重症)、後藤文夫内相官邸(不在)、牧野伸顕元内大臣別荘(脱出)。

殺害された重臣や警官、9人。クーデターに動員された兵1400名という前代未聞の大規模なクーデター。
陸軍省、参謀本部、そして警視庁も決起軍に占拠され、朝日新聞も襲撃。

磯部浅一(元陸軍一等主計)、村中孝次(元陸軍歩兵大尉)、香田清貞(歩兵第一旅団副官)たち川島義之陸相の官邸包囲、面会強要。
香田「決起趣意書」を読み上げ、さらに「陸軍大臣要望事項」を手渡す。

「決起書」の要点、「国体破壊の不義不臣を誅りくし、稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊をせん除する」
「要望事項」は、青年将校たちが敵視している陸軍幕僚(統制派。青年将校たちは皇道派)を保護検束すること、そして荒木貞夫大将を関東軍司令官に任命せよなど。
そして、川島陸相に、彼らの行動について「速やかに天皇陛下に奏上し御裁断を仰ぐ」ことを要求した。青年将校たち(皇道派)は自分達の決起を天皇が承認してくれるものと信じていた。自分たちのことを「尊王義軍」と称していた。

8時半頃、青年将校たちが最も信頼し首相にしたいと考えていた真崎甚三郎大将が陸相官邸に来る。磯部は「閣下、統帥権干犯の賊類を討つために決起しました」と報告。真崎は「とうとうやったか、お前たちの心はヨォッわかっとる。ヨォッわかっとる。」と語る。

9時30分。川島陸相、天皇に拝謁。青年将校たちの行動を説明。決起趣意書を読み上げる。
天皇は、不快感をあらわにし「陸軍大臣はそういうことまでいわなくてもよい。
それより反乱軍を速やかに鎮圧する方法を講じることが先決要件ではないか」と申し渡した。

10時。真崎、伏見官軍令部総長邸訪問。伏見宮宮中へ。天皇に会い真崎の言葉を自分の言葉として上申。これに対し、天皇は川島にいったと同じ内容をより厳しく繰り返した。

午後1時過ぎ。山下奉文少将「陸軍大臣告示」(直前に宮中で行われた非公式の軍事参議官会議で策定)を持って陸相官邸の青年将校のところに来る。
一、決起の趣旨は天聴に達した。
二、諸士の行動は国体顕現の至情に基づくと認める。
三、国体の真姿顕現(弊風を含む)は恐懺(きょうく)に堪えず。
四、各軍事参謀官も一致して右の趣旨により邁進する。
五、それ以外は一に大御心に待つ。

青年将校たちは、この「告示」で自分たちの行動が認められたと考えた。
しかし、「告示」は実は軍首脳部たちの偽装工作だった。
軍首脳部が恐れたのは、青年将校たちの部隊と、それを鎮圧する軍隊(皇軍)が相撃ちとなることだった。そのため、一と二をわざわざ書き入れたものである。

告示は一、二は曖昧というより逃げ場が打たれていた。

翌27日。天皇が「鎮圧」と命じても事態ははかばかしく動かなかったので、側近たちに怒りを剥き出しにして叱り、ついに「朕自ら近衛師団を率い、鎮定に当たらん」とまでいいはじめる。

青年将校たちは、決起部隊の討伐があるという噂を知るが、御聖断を待っていた。
28日午前5時8分。ついに「奉勅命令」が下達された。
反乱軍は原隊に返れという命令である。現状のままでは逆賊になるという命令である。しかし、命令は直接届いていなかった。
命令から18時間後「反乱軍」は命令に背いたとして討伐命令が下された。

戒厳司令部、攻撃開始を29日午前9時と決定。

29日。討伐軍行動。飛行機ビラ撒き。「下士官兵に次ぐ」ラジオ放送。決起部隊原隊に帰る。

7月5日。青年将校たち17名死刑、5名無期禁錮、6名禁錮15年の判決。
北一輝、西田悦(みつぎ)も教唆、煽動での罪で死刑。

2・26歴史観その2 投稿者:長谷川 博  投稿日: 2月27日(火)17時54分42秒

(2・26事件の背景)
日本が敗戦したあの戦争は「軍部の独走で始まった」といわれ、それが決定的となったのが2・26事件であるということは大方の学者が指摘するとおりである。
昭和11年(1936年)2・26事件。
同 12年(1937年)日中戦争開始。

そして2・26事件の背景は、農村の疲弊と農村出身の兵と共にする青年将校が財閥に対する国士的反感を抱き、その援護の下にある政党が腐敗している、これを改革するには軍部を媒体として天皇制と国民を直統する「天皇親政」の実現を図ったものといわれる。
(昭和4年(1929年)世界恐慌からの経済の疲弊。)

しかし、これにはもっと分析が必要である。
2・26事件の6日前、2月20日の総選挙は、投票率78.7%。軍と絡んでいる政友会241議席から171議席に減少、軍と距離をおく民政党127議席から205議席に飛躍、無産政党22議席。
国民は政党政治にそっぽは向いていない。
軍人は選挙権を持たない(軍人勅諭「政治に拘らず」)。

軍の発言権が強まった原因は、満州事変(昭和6年、1931年)である。それに火をつけたのは張作霖爆破事件(昭和3年、1928年)である。いづれも関東軍の佐官の暴走である。

これに対し、政府も軍中央部もなす術が無く内閣が潰れている。

さらに、政治家の暗殺があるが、原敬(大正10年、1921年東京駅で暗殺)、浜口雄幸(民政党総裁、昭和5年、1930年東京駅で狙撃)浜口死亡後の翌年1931年9月、満州事変(軍人の暴走)。

昭和6年(1931年)5月15日犬養毅首相暗殺。
昭和7年(1937年)3月1日関東軍満州国建国宣言。

昭和13年(1938年)、近衛内閣が国家総動員法法案(委任立法)を議会に提案。議会を有名無実化するものとして当時の(民政党)斉藤隆夫、(政友会)牧野良三などは憲法違反だとして政府を追及した。

しかし、2・26事件2周年を期して青年将校たちがさらに大規模のクーデター> を計画しているという噂が広まり、政友・民政両党本部が右翼に占拠され、さらに社会大衆党の阿部磯雄委員長が右翼に襲撃されるなどの事件が相次ぐなか、国家総動員法が成立した。

すなわち、選挙権を持たない軍人を統制できなかった政党政治家は暗殺を恐れた。そして、当時若かった天皇には実質的に軍部を抑えるだけの力がなかったものと思われる。
すべての国民が選挙権を有してはいなかったが、選挙民は政党政治を支援していたのにもかかわらず、体を張って軍部の暴走を抑えきれなかった政治家があの悲惨な戦争を許してしまった、というのが私の2・26事件史観です。

悲惨な歴史は反省し繰り返してはならない。

2・26歴史観その3 投稿者:長谷川 博  投稿日: 2月27日(火)17時59分08秒

天皇の戦争責任について、簡単に私見を述べたい。
戦争責任というと議論がありますが、天皇の責任問題を棚上げにしたことにより、日本は戦争の総括をする機会を失ったことは事実です。

マッカーサーが天皇を退位させず、その責任を問わせなかったのは巧妙な日本統治の便法であったという見方に賛成しますが、昭和天皇は敗戦後責任をとって退位すべきであったと、私は思います。
日本人の自己責任意識の大切さが確立されたことと思います。

さて、ここですこし天皇制について私見を述べたい。
私は、明治憲法の天皇は天皇機関説が正しかったと思っています。
伊藤博文が明治憲法を作った。天皇が主権を持っているが実際には天皇は動けない。天皇の名において明治時代には元老、大正から昭和にかけては政党(衆議院)が動くシステムが天皇機関説です。

2・26事件当時の岡田内閣は、天皇機関説問題で大きく揺らいだ。
2・26事件に影響を与えた北一旗は、日韓併合(1910年)後の1919年の朝鮮半島の抗日3・1運動や同1919年の中国の5・4排日運動がマルクスの資本論などで理論武装された社会主義ロシア(1917年ロシア革命)の影響下の左翼運動、さらには日本での左翼運動に対し、右翼には理論が無く右翼のリーダ大川周明などに担がれ、「日本改造法案大綱」で反抗した。
北の理論は、天皇大権を発動して3年間憲法を停止し両院を解散、戒厳令を布くというもので、国家社会主義構想で私有財産の制限等自由主義経済を否定している。

3月23日、民政党寄りの岡田内閣を倒そうと政友会は衆議院で、天皇機関説の否定決議をし、天皇親政派に加担してしまった。
10月15日、広田弘毅政府は親軍的性格を余儀なくされ、日本の国号が「大日本帝国」となっていった。